高野創成期
History book
- はじめに-1831年(天保2年)
-
高野の歴史は天保2年(1831年)、高野喜六の河内本綿の製造に始まる。
綿緞通の製造へ手を広げ、ウイルトンカーペット、モケットの製造、その延長として床材の販売・施工から内装工事全般へ、さらに総合インテリア企業へと流れを続けてきた。
- 緞通の歴史
-
現在残っている世界で最も古い緞通は、パジリックカーペットと呼ばれるもので、1949年に、ゴルネーアルタイ山系のパジリック渓谷のスキタイ王族の墓から発堀されたものだ。
現在レーニングラードのエルミタージュ博物館に保存されている。鑑定の結果、紀元前五世紀頃のものとされている。
日本における緞通の起源をいつにするかは見解の分れるところだ。
三世紀に耶馬台国の卑弥呼が、魏の皇帝から毛氈を賜ったとか、八世紀には、下野国(栃木県)でも毛氈が作られたとか、奈良時代には、それが高価な品物であることから、製造統制が行われたともいわれている。
ペルシャや中国の緞通が渡来したのは足利時代であり、倭冠によって持ち込まれたというし、鎖国時代の徳川期にも、ペルシャ、トルコ、コーカサスの緞通が相当量はいってきている。
- 現代の緞通の元祖は鍋島緞通
-
しかし、現代につながるものということになると、鍋島緞通がその元祖と見てよさそうだ。
元禄時代、鍋島藩(佐賀県)扇町の百姓、古賀清右衛門が、小作人の青年を韓国に遣り、緞通製造の技術を覚えさせ、青年の帰国を待って、清右衛門自からも研究を重ね、製造を始めたのが、起源とされている。
これがやがて、播州赤穂に伝わり「赤穂緞通」となり、泉州堺に伝わって「堺緞通」となった。それぞれに技術改良が加わり、伝統が積み重なって今日に至る。
堺緞通の起源は、天保2年に、堺区の糸物商•藤本庄左衛門が、相良緞通(鍋島緞通)や支那裂の緞通を参考にして、絹屋町の泉利兵衛に製織させたのが始まりだという。
奇しくも高野喜六が、現在の大阪支店の地・住吉区住吉で、河内木綿の製造を開始した年である。
喜六はいち早く、緞通の製造技術を学び、河内木綿の製造と並行して、緞通の製造も開始した。
彼が何故、河内木綿の、そして緞通の製造を始めたかは、当時の高野家の置かれた立場に起因していることは否定できない。
- 「こうやくや」と呼ばれていた
-
高野家は代々、住吉の地主であった。
住吉大社の境内と隣接する住吉一帯は、多くが高野家の土地であり、そこに住む人たちの生活にも高野家の影響は大きかった。
当時は、大家にとっては「店子は子も同然」という気風が強かったうえ、住吉大社のお膝元という土地柄も手伝って、喜六が人一倍その責任を感じたとしても無理はない。
高野家は大正初期まで「こうやくや」と呼ばれていた。「こうやく」でまず思いつくのは「膏薬」だ。確かに、高野家が織物を手がける以前は、副業に製薬業を営んでいたとの言い伝えもある。
それに合せて「顔役」がなまったもの、とする説がつい最近まで言い継がれていた。
これが「こうの」との語呂のよさもあって「こうやくや」に定着したものと思われる。
顔役=世話役が高野家代々の立場であり、店子たちの生計の道の一手段として、河内木綿の、そして緞通の製造をはじめた、というのがそもそもの発端であった。
- 新しがり屋の高野喜六
-
高野喜六は、また好奇心の強い、新しものがり屋だった、との言い伝えもある。
緞通製織法は当時の最先端技術だったことも、喜六をして緞通製造にかりたてた一因だったと思われる。
喜六は自分の屋敷内に工場を作り、店子の子女を雇い入れて生産を始めた。いわるるマニファクチャー(工場制手工業)の草分けである。
当時は日本資本主義の萌芽期でもあり、商業資本家が原始的蓄積を経て、問屋制家内工業を発展させ、さらにマニファクチャーへと移行して行く時期であった。
喜六が一足飛びにマニファクチャーを始めることができたのは、代々住吉の地主・顔役としての高野家の経済力、社会的地位に大きく助けられたものと思われる。
また、いち早く新しいシステムに飛びついたところにも、喜六の好奇心の強さがうかがえる。
- 喜六には二人の息子がいた。
-
喜六には、彼の名を継いだ喜六と仙吉の二人の子がいた。二人の兄弟は家業を手伝い、やがて父の跡を継ぐ。
兄・喜六が河内木綿の方を、弟・仙吉は綿緞通の方を受継いだ。暖廉分けである。川の流れはここで二本になった。
しかし、弟・仙吉の受継いだ綿緞通の方は、工程が煩雑で生産量も少なく、兄と対等に分けた住吉の顔役としての立場を維持して行くのは困難であった。
このため、仙吉は自分も河内木綿の製造を始め、緞通と河内木綿の二本建てで操業を続けた。
仙吉の段階で川の流れはさらに二本となった。
この体制は明治の中期まで続いた。
- 新時代の夜明け-1853年(嘉永6年)
-
嘉永六年、ペリーが浦賀に来航。
動乱の幕末に移り、一つの時代が終る訳だが、先代・喜六も高野商店の礎石を築いて世を去った。慶応元年11月のことである。
- 緞通づくりに精を出す高野仙吉-1868年(明治元年)
-
新時代・明治はその三年後から始まった。
西洋文明が一気に流入し、近代インテリアの第一波が、文明開化の歌声とともに押し寄せてきた。
大阪・住吉を中心として敷物メーカーが一斉に創業したのもこの時期であった。そのなかで高野家は老舗としての役割を果して行った。
仙吉もまた、父・喜六に負けず劣らず進取の気性に富んだ男であった。
明治10年には緞通織機を増設して、本格的な緞通製造に移った。
折から天皇が大和に行幸し、堺緞通を天覧され、さらに同年の博覧会に緞通が出品されて、一般の堺緞通に対する認識も高まり、需要も次第に多くなってきた時期であった。
この頃は、13年に太政官から官営工場の払い下げの通達が出され、16年に深川セメント製造所、17年に品川硝子製造所、19年に兵庫造船所、20年に長崎造船所・・・と、次々に官営工場が民間に払い下げられており、日本資本主義の育成期にあたる。
この時期、仙吉は、わき目もふらず緞通製造に精を出していた。
産業資本家としての野心より、店子、従業員の生計を見守り、家業を堅持しなければならないという使命感が、彼の心を大きく支配していたためと思われる。
この使命感は後の二代目寅吉に良くも悪しくも、大きく影響している点は見逃がせない。
- 仙吉の英断・養子寅吉の起用
-
仙吉は一男四女をなしたが、跡を継ぐべき長男は父の意にそむき放蕩の限りをつくし、家業をかえりみなかった。
仙吉は高野家を守るべく、ここで大英断を下した。長男を廃嫡し、養子・寅吉を迎え入れたことである。
高野家150年の歴史は、この決断がなければ、あるいは途切れていたかも知れない。
寅吉が仙吉の片腕となってから、仙吉の関心は規模の拡大より、品質の向上に向けられて行った。
- 共進会のコンクール入賞-1890年(明治23年)
-
当時の産業振興策の一つに〝共進会〟があった。製品コンクールはその主な主催事業だが、これに出品し入賞することは、産業人として大きな名誉であった。
仙吉は毎年この共進会に緞通を出品し、明治23年には大阪東成・住吉両郡の共進会で三等に入賞した。
寅吉が事実上の家長となってからは、品質向上の意欲はさらに拍車がかかり、33年には共進会の全国大会とも言うぺき〝連合共進会〟で六等に入賞し、農商務大臣から褒賞を授与された。
国家の産業政策を司る最高機関からの表彰だけに、これは高野家にとっては大きな名誉であり、仙吉、寅吉にはこの上ない励みとなった。
共進会にはその後も出品を続け、明治35年には大阪府知事から二等の褒賞を受けた。
- 寅吉、今日の青写真をつくる-1910年(明治43年)
-
仙吉は、明治43年10月21日に没した。
初代・寅吉は養子ではあったが、仙吉のメガネ通り、仕事一途の生真面目な男であった。
緞通製造業の枠を越え、今日の総合インテリア業の青写真を作ったのはこの寅吉である。
〝住吉代々の地主〟よりも〝産業人高野〟の色彩を一挙に強めたのも彼である。
寅吉がまず手がけたのは、モケットの製造であった。
鉄道国有法が公布され、私鉄の吸収と合わせて、車輛改良が緊急の課題となり、座席シートのモケットの需要が急速に伸びたという背景があった。
この頃、日本でもウイルトン・カーペットの製造が始まった。
寅吉の関心はウイルトン・カーペットの製造に傾いて行くが、このモケット製造は高野の発展に大きく貢献した。
後にこの地区で生産されたもののほとんどが、高野の手を経て流通ルートに乗った時期がある。
高野が販売する織物のうち、自社製品は50%で、半数は住吉周辺のメーカーから納入されたものであった。
こうして高野は、住吉地区の装飾織物の元締めとしての重責をになうことになるが、それは高野家が住吉の緞通製造の草分けであったことと、寅吉が装飾織物メーカーとして確固たる地位を築いた力も大きい。
- 合名会社の設立-1918年(大正7年)
-
大正7年、高野は大きな転機を迎えた。
寅吉の子・房太郎、政次郎、民三、勝正四兄弟による「合名会社・高野商店」の設立である。
この年の8月27日、初代寅吉が世を去った。52歳であった。
合名会社の設立は、寅吉の遺言である。資本金は1万2千円。
代表社員に長兄・房太郎が就任し、寅吉名も襲名した。
高野商店の代名詞として語り継がれている「高野寅吉」は、この房太郎である
- 二代目寅吉・房太郎の強い個性
-
この二代目寅吉の時代は、高野商店の波乱の時代でもあった。
大正期から終戦後の経済復興期までの高野商店の歴史は、この二代目寅吉の強烈なキャラクターが、すみずみにまで浸みとおっている。
二代目寅吉は、祖々父・喜六の進取の気性と、父・実吉の堅実さの、時には相反する性格を受け継いでいた。
後に時代の大きなうねりの中で、寅吉の心境が揺れ動くのが分るが、それは祖々父と父から受け継いだ大胆さと堅実さの両極の中で常に揺れていた彼の心理がそのまま反映したものと思われる。
「合名会社・高野商店」は、四兄弟の協力でスタートしたとはいうものの、三男・民三はまだ高校生、四男.勝正は中学生であり、実際に商売にあたったのは長男・寅吉と二男政次郎の二人であった。
- 営業は寅吉、工場は政次郎、よくかみ合った二輪
-
寅吉は、工場を政次郎に任せ、自分は営業を受け持った。
兄弟四人のそれぞれの持ち味を生かして仕事を分担し、家業を守り抜くというのが寅吉の基本的な考え方であった。
全国を股にかけて営業に走り回る寅吉のバイタリティーは後々までの語り草となっている。
政次郎は、父・寅吉の実直さをそのまま受け継いでおり、生産面の管理と運営に手腕を発揮した。
ドイツからダブル織機「ションヘル」を導入し、工場生産も順調にのび、次第に近代化工場へと脱皮して行く。
二人の歯車はみごとにかみ合い、取引のエリアも急速に拡大して行った。
当時の得意先名簿が二冊だけ現存している。外地編と東日本編だが、そこには1400に及ぶ取引先の名が記録されている。
この時期はまた、第一次世界大戦の特需景気にわいた時期であった。
インテリア用品は輸入がストップして、国内生産に拍車がかかり、国産リノリュームも作られるようになった。
高野商店もその波に乗って業績は大きく伸びた。
- 高野商店、東京に進出-1922年(大正11年)
-
やがて寅吉は東京進出を夢見る。
すでに東京方面での取引も増えており、商談、売掛金回収には、いちいち列車で東京に出張しなければならなかった。
寅吉は、当時学生だった民三と連れ立って、大阪・東京間を往復していたが、回収した現金を持ち歩くことは、豪放磊落な寅吉にとっても、常に不安がつきまとっていた。
当時、東京の業者は芝界隈に集中しており、宿泊場所は新橋の旅館を使うことが多かったが、その回収した現金を敷布団の下に隠して寝たとか、帰りの汽車の中では絶えず周囲の乗客を警戒していた等のエピソードが残っている。
東京に支店を出したのは、大正11年7月のことであった。
現在の本社地・千代田区神田須田町(旧・神田区通新石町21番地)に、三階建ての建物を買い求め、一階を店舗に、二階を従業員寮に、三階を寅吉一家の住いにした。
当時、東京での社員は5名だった。大阪は本社・工場合せて20名に増えていた。
寅吉は、須田町の支店を拠点として、東日本、樺太、満州、台湾、シンガポール等の外地への椅子張り地や、カーペット、リノリュームの販売を精力的に開始する。
- 関東大震災で夢は破れる-1923年(大正12年)
-
だが、思わぬことで寅吉の夢は打ち砕かれた。
翌大正12年9月1日の関東大震災である。
折からの夏休みで大阪から政次郎の子・利夫が遊びに来ており、帰阪する寸前のことであった。
寅吉は、家族、甥、従業員をひき連れて余震の続く東京の街を逃げまどい、皇居前に避難した。
大阪から救援が来たのは、それから一週間後であった。
この地震で東京の下町はほとんどが破壊された。東京進出の拠点だった須田町の社屋は焼け、取引先の被害も大きく、東京へ出て来たばかりで、さあこれからという彼にとって大打撃であった。
寅吉は、涙をのんで一旦大阪に帰った。
- 再び東京へ-1924年(大正13年)
-
翌大正13年、寅吉は再び東京へ出た。
震災の復興で、建築関連資材の需要が急速に伸びた時期である。
この頃、私鉄沿線の開発が進み、洋間を一つつけた分譲住宅、いわゆる"文化住宅"が流行し、その洋間にはカーテン、カーペットを使用することから、インテリア用品の需要が伸び、"近代インテリア"、が庶民の中に浸透しはじめた時期でもある。
- 三男・民三も参加
-
三男・民三は関西大学に進んだが、学業よりも家業の手伝いの方が多くなった。
兄弟それぞれの持ち味を生かすことを夢見ていた寅吉は、民三の学力を重視していた。
折からシンガポールヘ行く用事ができた。寅吉が白羽の矢を立てたのは民三であった。
「お前は大学へ行っているから英語が話せる」という単純な理由からであった。
また社章を決めることになった時も、寅吉は「頭がいいところでお前が考えろ」と民三に考案を命じ、民三の第一案にすんなりOKを出している。
昭和45年まで使用されていたKマークがそれである。
民三は一年がかりでシンガポール、台湾の商用をすませて帰国、そのまま大学にもどらず家業に専念する。民三は寅吉の片腕として営業に力を発揮した。
- 時代は昭和へ・・・天皇ご即位のご大典の緞通をつくる-1926年(昭和元年)
-
大正天皇薨去。
世は昭和へと移る。
今上天皇ご即位のご大典の儀は紫宸殿で行われる。ここに使用される緞通を高野商店で作ることになった。
天保2年の創業以来の実績と信用が評価されただけに、高野商店にとってはこの上ない名誉であった。
工場内は洗い清められ、神主にお祓いをしてもらった。
さらに織機には七五三縄が張られ、織工たちは全員白木綿の衣裳に着替え、昼夜兼行で、ご大典の緞通製織にあたった。
これにより、高野商店の社会的信用はさらに高まり、宮内庁関係の内装を手広く引受けることになった。
初めはリノリューム、緞通等の材料の納入が主であったが、昭和6年には門鑑をいただき、直接工事に携わるようになった。
当時、終戦までそうであったが、宮内庁への出入りはたいへん厳しいものがあった。
材料を搬入する際は、それを荷車ごとまる一日かけて消毒し、職方も身体を洗い清めて初めてはいれるという気の使いようであった。
- 四男・勝正、内装工事担当として加わる
-
内装工事は、東京に二度目に進出した大正13年から手がけていたが、本格的に開始したのは昭和6年からである。
これは、一つには宮内庁の内装工事を直接手がけるようになったこともあるが、もう一つの大きな要因として、四男・勝正が早稲田大学を卒業し、社業に加わったことがあげられる。
寅吉と民三が営業を、政次郎が工場を、そして勝正が工事を担当することになった。
「四兄弟各自の持味を生かす」という寅吉の構想がここに結実したのである。これは父• 初代寅吉の遣訓でもあった。
勝正の大学時代の学友には、後に大手建設会社に進んだ人も多く、その豊かな人脈に支えられて工事業は順調に伸びて行った。
明治生命ピル、高千穂ピル、内幸町の日本放送協会会館等、当時の主要な建築物の内装工事を一手に引受けた。
戦後になって高野商店は、内装工事を主体に、流れを大きく変えることになるが、その基盤を作ったのは、この勝正である。
- 実現しなかった寅吉の構想-1934年(昭和9年)
-
昭和9年、寅吉は女婿・雄三を迎え入れた。
雄三は、そのころ文京区本郷にあった渡辺女学校の美術の教師であった。デザイン感覚に優れ、教育のかたわらネクタイのデザインを手がけたこともある。
寅吉は、雄三の優れたデザイン感覚を評価し、オリジナル製品の発売を計画した。その足がかりとして、まず家具部を発足させ、雄三に担当させた。
しかし折からの日華事変は泥沼化し、雄三は戦地に召集され、寅吉の構想は実現しないまま終ることになる。
- 内装全般に進出-1936年(昭和11年)
-
昭和11年、国会議事堂か完成した。 議事堂の絨氈、椅子張り地はいずれも高野商店が製織したものであった。貴族院の椅子張りは正絹、衆議院のそれは絹紡であった。
このころはまた、宮内庁御用逹の信用、国会議事堂はじめ主要な建築物の内装の実績等により、外務省、司法省関係の仕事も増え、主カデパートとの取引も急速に増加していった時期でもある。
- 暗雲たれこめる-1938年(昭和13年)
-
昭和13年1月、事業の発展にともない、資本金の増額に踏みきった。これは大正7年の合名会社設立以来二回目の増資である。
第一回は大正13年3月の3万円、今回は一挙に30万円に増やした。14年間で10倍の増資である。 この年、国家総動員法が制定された。
これにより国民生活は戦争中心に組立てられ、世情は緊迫の度を深めて行く。 翌14年1月には、正絹織物以外の力織機、手織機の新設・増設、および登録変更が禁止された。
そして15年7月には、奢侈品等製造販売制限規則が施行されるなど、室内装飾業界にも暗雲が重くのしかかって来た。
- 太平洋戦争始まる-1941年(昭和16年)
-
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃によって、日米開戦。太平洋戦争が始まった。 やがて第二次世界大戦へ。
この年の4月、前年12月に第二次近衛内閣によって発表された「経済新体制確立要網」に基づいて企業合同が行われ、「帝国特殊織物有限会社」が設立された。
これは大阪府経済部の指令によって行われ、大阪の緞通・絨氈業者、モケット業者を三分し、帝国特殊織物有限会社、大阪パイル織物株式会社、日本立毛有限会社の三社か設立された。
帝国特殊織物有限会社は、住吉地区の大部分の業者と、河内地区の一部業者が統合されたものであり、高野商店大阪工場はそれに組み込まれた。
政次郎は、その主力出資者として取締役に就任した。ちなみに帝国特殊織物の合計出資金は7万5千円であった。
17年にはいると、数次の海戦で多数の艦艇と航空機を失ない、同年6月の軍需動員会議で航空機優先生産拡充方針が打出された。
帝国特殊織物有限会社に編入された大阪の本社工場では、陸海軍用の防寒シール、パラシュート生地の生産にあたっていた。
一方東京支店の方は、他の内装業者が一様にそうであったように、官公庁、銀行、各会社等の防空暗幕の販売・工事で戦時をしのいでいた。
この間、社員は次々に召集され、その数は十数名にのぼった。 日華事変に出征し一時帰国していた雄三も、19年に再び召集され、南方の戦地へ向った。
- 復興をめざして-1945年(昭和20年)
-
昭和20年8月15日、終戦。 戦地から、現常務・上坂忠俊ら出征社員が続々と帰遠帰還した。しかし不帰の客となった社員も三名いた。 そして雄三も。
高野隊々長・高野雄三の戦死の報が届いたのはずっと後になってからであった。
伝え聞くところによると、雄三率いる高野隊は、ニューギニアの奥地で、19年11月22日に米軍の包囲を受けて全滅したという。
雄三は、英子との間に現社長・修、現直売部店長・明の二人の幼子を残して、39歳の短い生涯を閉じた。
- 新しい活動のはじまり
-
社業の方は再び活気を取りもどした。
まず手がけたのは、これまでの防空暗幕にかわって、GHQの施設のロールブラインドの取付け工事と、建物のメンテナンスであった。
GHQに接収された建物の大部分が、戦前に高野商店で内装を担当した建物であったことも、高野商店にGHQからの注文が多く寄せられた要因にあげられる。
宮内庁からの仕事は戦後も続いた。
仮宮殿時代の内装の大半は高野商店で手がけたものであった。
また吹上御所、東宮御所の壁装、カーテン施工も担当した。
そして新宮殿の床工事、皇后陛下御還暦記念で建設された音楽堂の内装工事も引受けた。
内装工事のみならず、御立台の製作も高野商店の手によるものであった。
昭和20年から新宮殿が完成するまでの間は、元旦、天皇誕生日の一般参賀に、天皇ご一家がおこたえになる御立台は仮設のものであったが、その都度製作にあたったのは、一貫して高野商店であった。
戦後の混乱が収拾に向い、統制経済が解除されよるようになって、日本経済は復興から躍進へと向う。
この中で、高野商店の経営方針は、重心がこれまでの敷物、モケット類の製造販売から、内装工事へと大きく転換して行った。
昭和32年、日本でもタフテッド・カーペットの製造が本格的に始まった。
敷物メーカーは続々タフティング・マシーンを導入し、タフト時代にはいるが、寅吉はかたくなにウイルトン・カーペットに固執した。
それもウイルトン織機の増設などの拡大を目指さず、現状維持の単純再生産であった。
これは、工事部門が軌道に乗ったということもあるが、寅吉がむやみな企業規模の拡大よりも、堅実に社業を守って行くことの方を重視したためである。
- 寅吉のエピソード
-
喜六、仙吉が綿緞通の製造を開始したのは、代々住吉の地主として、〝店子を守る〟との気風によるところが大きかったが、二代目寅吉の時代には、この気風が〝従業員を守る〟という形に変化した。そのためには極力冒険を避けることだと、寅吉は判断した。
彼は頑固にこの考え方を守りとおした。
寅吉は頑固な男であった。それを物語るエピソードがいくつか残されている。
その一つ、自動車購入時のことだ。
戦後まもなくのことである。それまでは商品の運搬にはリヤカーが使用されていたが、同業他社は次第に自動車を使うようになってきた。
社員たちは「いつまでもリヤカーの時代ではない」と、自動車の購入を提案したが、寅吉はガンとして聞き入れなかった。
周囲がほとんど車を使うようになって、ついに折れ、やっとダットサンを購入した。
しかし、寅吉はその自動車を誰にも使わせることなく、せっかくの文明の利器も店舗内に鎮座したままであった。
もう一つ、社屋もそうである。
当時の社屋は、関東大震災直後に建てられたもので、その後隣接の土地を買い、建増し、建増しで継ぎたしていったものであった。
母屋と継ぎたした社屋の両方の廂か重なり、母屋の雨樋が、継ぎたした社屋の雨樋を兼ねる、という有様であった。
このため大雨でも降ろうものなら、雨樋は雨水を収容しきれず、社内は雨もり状態となり、社員はバケツを持って走り回った。
この雨もり騒動は、昭和49年の新社屋完成まで続いた。
社員たちは再三、社屋改築を申入れたが、寅吉は「商売は建物でするのではない」を繰り返すばかりであった。
- 高度経済成長に突入-1960年(昭和35年)
-
昭和35年、安保騒動後発足した池田内閣は、「所得倍増計画」を発表。日本は高度経済成長時代に突入する。
このころ、ウイルトン・カーペットのアメリカ輸出はピークに達していた。
- 輸出から国内需要ヘ-1961年(昭和36年)
-
翌36年12月、アメリカのケネディ政権は、輸入カーペットの関税を、これまでの21%から一挙に40%へと大幅な引き上げを行った。
これは日本のカーペットメーカーにとって大打撃であった。メーカーはこれまでの輸出依存体制から国内市場の拡大へと転換をはかった。
日本の本格的なインテリアは、これを契機に始まったとする見方もある。
- 代表社員に勝正就任-1963年(昭和38年)
-
昭和38年4月20日、二代目寅吉こと房太郎死去。
合名会社の設立、東京進出、関東大震災による挫折、再起、工事業への進出、戦後の復興・・・かたくなまでに自我を押通し、強烈な個性で高野商店の一時代を画した二代目寅吉か逝った。75歳の大往生であった。
二代目寅吉のあとをついで、代表社員には勝正が就任した。
39年は、東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催され、高度成長へいっそうの弾みがついた年である。
- 内装工事に全力投球-1967年(昭和42年)
-
昭和42年2月、大阪本社の織物工場を閉鎖した。
すでに勝正がまいた工事業のタネが大きな幹となり、高野商店の川の流れは、工事が本流となっていたためであった。
東京に初の高層建築・霞ヶ関ピルが完成したのは昭和43年だが、これを機に日本は高層ビル時代にはいった。
翌44年には、国民総生産が世界第二位となり、高度経済成長もここにピークを迎える。
折からの建築ラッシュで、内装工事は多忙を極めた。
- 株式会社高野商店の誕生-1970年(昭和45年)
-
昭和45年、高野商店はまた大きな転機を迎えた。合名会社から株式会社への組織変えである。
12月、資本金400万円で「株式会社・高野商店」が誕生した。
社長には高野修が就任した。36歳、思い切った若返りである。
政次郎の子・利夫か副社長に、民三の女婿・敏夫か専務に、株式会社への組織変更の下地を作った勝正は会長に就任し、修を支える体制をとった。
寅吉、政次郎、民三、勝正の四兄弟時代にかわって、高野商店新時代の幕開けである。
- 新しい流れの始まり-1972年(昭和47年)
-
新社長・修は、矢次ぎ早に新機軸を打ち出した。
まず、社屋の新築である。
旧社屋が寅吉の時代にすでに老朽化していたことによるが、「新しい酒は新しい革袋に」に基づいて、外に対しては企業イメージを高め、内に対しては社員の意識の一新をはかる意味もあった。
47年10月、横浜市に横浜出張所を開設。内装仕上用建材の卸売り業務を開始した。
さらに49年6月には、目黒区自由ヶ丘に「インテリア・コーノ」を開店し、室内装飾用品の直売業務も開始した。
同年10月には東京営業所も開設し、卸部を正式に設置するなどの機構改革と、54年2月に千葉市にも営業所を開くなどで営業網の拡充をはかり、「総合インテリア企業・高野商店」への飛躍の土台作りをした。
高野商店の川の流れは、緞通、モケット等の製造販売から、本流が内装工事に移り、今また新たな流れが始まろうとしている。
- 新社屋完成-1974年(昭和49年)
-
新社屋が完成したのは、49年7月である。
千代田区神田須田町の九階建ての現社屋「高野ビル」がそれである。自社スペースは八階、九階の二フロアとし、他は賃貸スペースにあてた。
※高野ビル:設計監理 三菱地所・施工 三菱建設 竣工当初数年間を1~5階のテナントとして三菱銀行神田支店が使用。
資本金は、49年に1千万円に、翌50年にはさらに倍額の2千万円に増資した。
53年9月には本社を大阪から東京に移した。
これまでも事実上の本社機能は東京支店が果していたが、業務の円滑化をはかるために正式に移管したものである。
また、業務の管理機構を再編成し、大阪支店を副社長・高野利夫が、卸部を専務・高野敏夫が、工事部を常務・上坂忠俊が、それぞれ最高責任者として管理にあたっている。
大阪支店は、すでに敷物生産から内装工事への転換を完了していたが、これまでの工場敷地に、新たにマンションと駐車場を作り、土地の再利用をはかった。
これに併せて不動産部を開設して、本社ビルと大阪支店のマンション、駐車場の不動産管理の体制も整えた。
また、企業の発展は業界の発展と同軸にあることから、業界にも寄与すべく、業界団体に社長・高野修と、専務・高野敏夫が理事として参画。
とくに高野敏夫は床工事業の全国団体の設立に参加し、理事長として重責をになった。
- 結びに-現在
-
高野創成記の一端を紹介してきたが、これを礎にして2031年には創業200年を迎える。
世の中変革期であり、中興の祖としてこれまでの寅吉同様三代目寅吉も「継続は力なり」信用こそ「商」をモットーに伝統を守りつつも革新を続けている。
市場の変化に対応しながら持続的な成長を遂げ、安全安心な世の中に貢献していくことを期待する。